関東支部の歴史

1910年夏。たった13名から始まった関東支部が歩んできた歴史を、2004年に刊行された関東支部の史誌『葡萄の枝』 から抜粋して紹介させて頂きます。

※1955年以降の総会については、5年毎の開催しか記載されておりませんが、2020年を除いて毎年開催されています。

関東支部の開設は本部よりも5年早く、1910年に『英和女学校校友会』として誕生しました。
2010年に100周年を迎えております。
次の200周年に繋げる枝を守ってこられた歴代の支部長の皆様をご紹介致します。

就任年西暦和暦名称氏名卒年
1910明治43年幹事西村タツ明治24
1910明治43年幹事結城イト明治27
1926昭和1校友会責任者(初代支部長)荒牧トキ大正9
1953昭和28初代会長熊手ハツエ大正8
1966昭和41支部長田中志津大正13
1970昭和45支部長浅間喜代子大正14
1975昭和50支部長渡辺和子昭和11
1978昭和53支部長長澤のり昭和18
1981昭和56支部長河東淑子昭和19
1984昭和59支部長一宮凡子昭和20
1987昭和62支部長熊手寿弥子昭和25
1990平成2支部長服部ナオミ昭和27
1993平成5支部長帆足靖子昭和29
1996平成8支部長水口千鶴昭和32
2000平成12支部長梶村順子昭和35
2003平成15支部長小中乃芙子昭和30
2006平成18支部長渡辺京子昭和31
2008平成20支部長波多野淑子昭和31
2011平成23支部長竹中和子昭和33
2014平成26支部長鈴木恭子昭和38
2917平成29支部長有森直子昭和42
2019令和1年支部長木ノ内順子昭和42
2020令和 2年サポーター長諸江陽子昭和42
2024令和6年サポーター長川﨑由紀子昭和57

2004年発行『葡萄の枝』より抜粋した諸先輩方の寄稿をご紹介させていただきます。


荒牧トキのこと

荒牧真理子(義娘様)

 先日、熊手寿弥子様がお電話をくださり、荒牧トキが関東支部の初代支部長だったので、何か思い出を書いて欲しいとのことでございました。

夫の母、荒牧トキが召天しましてから、20年余りがたちます。同窓の方で荒牧トキを覚えてくださる方はもうごく僅かかもしれません。

母は旧姓岩切と申しまして、明治36年1月3日鹿児島県で牧師の娘として生まれ、福岡女学院に学びました。学院長を務められた柿薗先生とは同学年だったようです。女学院卒業ののち、東京女子大学で英文学を学び、卒業後福岡に戻って女学院で英語教師を務めました。

ちょうどその頃、夫の父荒牧鉄雄は旧制東筑中学を経て東京外語の英語科を卒業し、西南学院で教鞭をとっておりました。2人は英語の研修会などで度々顔をあわせ、活発に発言する母を、父はまぶしい思いで見ていたようです。父の妹の荒牧春枝が当時福岡女学院に在学しておりまして、母の教え子であったことから父と母は親しくなり、やがて父が東京の7年制の私立武蔵高等学校の教授として招かれたのを機に、結婚して上京致しました。結婚式は、福岡女学院の礼拝堂で行われ、宣教師の先生方に祝っていただいたそうです。 

状況以来1982年10月8日に召天しますまで、母は東京で暮らしました。母はいつもおおらかでにこやかで前向き、進取の気性に富んだ実行力のある人で、意地の悪さの微塵もない人柄でしたから、人々のまとめ役になるのに相応しい人物だったのだと思います。女学院同窓会の東京支部長の他にも、女学院の理事、本郷中央教会の婦人部長、東京女子大学の同窓会の理事なども務めました。 

家庭では、夫鉄雄や自分自身の弟妹の面倒を実によくみて、精神的・経済的援助を惜しまなかったようで、両方の弟妹に慕われておりました。 荒牧鉄雄は、かつて三省堂から出した「英文法」「英文解釈」「英作文」の『荒牧の三部作』で有名だった時期がありますが、同じ英語を学んだ者として、父の陰で著作を助けたのは母だったことも聞いております。 

私は「嫁」であったわけですが、一緒に暮らすのがこのような姑で、本当に幸運だったと思っております。「嫁はこうあるべき」という狭い考えを押しつけるタイプの人ではありませんでしたから、私のしたいことは何でもさせてくれましたし、応援もしてくれました。「あんたはちっとも実家を恋しがらない嫁さんね」と母は言ってましたが、荒牧の家が居心地よくて、実家の母に愚痴をこぼしたくなるような姑ではなかったからなのです。 

現在は私が姑の立場になりましたが、嫁を可愛いと思ええるのも、姑荒牧トキが私によくしてくれたことが「今度は私の番」と、その幸せを順送りしたい気持ちにさせているからなのだろうと思っています。

2004年発行『葡萄の枝』より[荒牧トキ様(大正8年卒)は、昭和1年から戦争を挟んで昭和27年までの長きに亘り校友会責任者として務められました 実質初代支部長でもいらっしゃいます]


主に信頼する恵みの人生

熊手ハツエ(遺稿)

「私達の齢は70年、健やかであっても80年。しかもその誇りとするところは苦労と災いです。

それは早く過ぎ去り、私達も飛び去るのです。」

私はその80を更に越しました。そして遠からず、私なりの苦労や災いを胸に天国へ飛び去る事でしょう。このみことばはダビデの時代のものですが、現代人の思う事と何ら変わりはありません。そこに聖書の真実性を感じ取ることができ、一層心を込めて聖書を読まなければと思うのです。

私の両親は聖公会の信者で、私は生まれながらに教会とかかわりを持っておりました。クリスマスには天使の一人になって牧師館から会堂まで大人の方に抱かれて行ったり、宣教師宅に招かれて暖かい部屋でツリーの根元に置かれたプレゼントを頂いたり、子供の頃の楽しい思い出を忘れる事ができません。

「若い日に、汝の創造者を覚えよ」(伝12-1)とあります。そのおかげで、私はミッションの学校の教育をずっと受けてきました。もし、両親が仏教信者だったり無信仰の人だったら、私の人生の進路はおのずと違っていたでしょう。今日の私の生活と同じように幸福になれたとは考えられません。

私は子供の時から余り人に叱られた事がありません。その故か、いわゆる本音と建前の使い分けをしたり、理解することが不得手で、よく常識が足りないと言われます。しかし私なりに、人様を傷つけるような事があってはならぬと心がけていますから、少しくらい常識が足りないと言われても余り気になりません。

伝道の書に「その誇るところは苦労とわざわいです」とありますが、私はこの経験をやはり結婚後に味わったのです。数度の辛い思いやわざわい、その時は本当に真剣に祈りました。そして、はっきりと聞き届けて頂きました。これは尊い私の信仰の体験となりました。その以前にも何度か我ながら無理と思われる道を選んで親を心配させました。しかし、神の御許しを頂いて今日にいたりました。

今日までの私の人生、そして今の生活は全く神様のお恵みによって与えられたものです。そのためには家族の毎日の私に対する気配り、他の子供達弟妹達そしてその家族の思い遣り、変わらぬ友人達との交友、それにもまして教会の先生方や会員の方々のあたたかいご指導とお労りを、神様は私のためにそなえてくださいました。感謝の他ありません。

2004年発行『葡萄の枝』より[熊手ハツエ様(大正8年卒)は、昭和28年~昭和40年まで関東支部長を務められました]


受け継いで行くべきもの

長澤のり(昭和18年卒)

  昭和53年(1978)から55年(1980)までの3年間、支部長を務めさせて頂きました。その8年前の昭和45年 から46年にかけては当番学年として浅間喜代子支部長のお宅に伺って関東支部の活動に加わり、それが私の 同窓会開眼の時でもありました。浅間支部長はいつも自宅を開放して私どもと昼食を共にしながら関東支部の古いお話をなさり、私達と親しくお交わり下さって、力強く私達をご指導下さいました。 

然しこのような「おもてなし」はどなたでも出来ることではありません。私がお引き受けする時、任期を3年しかも次の支部長を決めてからお受けしました。まだ規約は明記されていなかった時代で、どなたでも気軽に受けられるようにとの思いからでした。

3年は瞬く間に過ぎました。当番学年(昭和26、27、28年卒)の方々には親身のお世話になりました。これらの方々のご協力がなければ何も実行することが出来なかったと改めて感謝を申し上げます。また総会では、在京同窓生有志によるコーラスが花を添えて下さり、それが「コール・クレール」となって現在に至り、海外にまで遠征しておられることは誠に嬉しい限りでございます。 

一方、当番学年の活動費がゼロであったこの時代、少しでも本部からの援助をと何度もお願いしましたが、実りませんでした。しかし平成9年より支部の在籍数に応じ1人1,000円ずつのご支援を頂いていると知り、私達の悲願が叶えられたことを喜んでおります。 

女学院や同窓会本部から懐かしい先生方をお迎えして母校の消息を伺えるのは何よりの楽しみでした。 在学中厳しい面しか感じることのできなかった先生が同窓会ではにこにこと優しく語りかけられるのでした。

何にもまして感動的で私の同窓会への思いを熱くしたのは、渡辺磐子先生が上京された時、当番学年の湯本さんとご一緒にお供して、ご高齢で同窓会に出席できない大先輩の方々を訪問した日のことでございます。 

磐子先生ご自身も同窓生でしたから、病床の傍らで母校や恩師の思い出を語り短いお祈りをなさいます。するとどの先輩の方々もすぐに感謝の祈りを捧げられました。ある方などは、どこからそんな力が湧き出るのだろうと驚くほどの大きな声で祈られるのでした。

私はその時、昔の福岡女学校が生徒に授けた良き教育の基本が何であったのかをはっきりと知ることができました。空爆で校舎が焼失しても毎朝の全校生徒礼拝を中止することの無かった「福岡女学院の基本」。それこそが「受け継いで行くべきもの」なのではありませんか?

荒牧先生、熊手先生その他の先生方や諸先輩の方々が熱心に関東支部を創り育てられた意味はそこにありました。私達も時代に翻弄される事無く「女学院の基本を受け継いで行く者」でありたいと心から願っております。

2004年発行『葡萄の枝』より


沢山の宝物をいただいて

熊手寿弥子(昭和25年卒)

 思い出しますのは1986年の6月頃、自由が丘の喫茶店“モンブラン”で一宮支部長、内田副支部長に次期の支部長の役を頼まれたことでございます。主人の母が二代目の支部長をさせていただいた時、関東支部同窓会 のために一生懸命活動し、また、お当番の方々が母を支え熱心に仕事をなさっていた姿に心打たれ、私も 関東支部のためにお手伝いしたいと思っていましたので快くお引き受けしました。

その年の11月に元気で明るく活動をなさっておられた一宮支部長が永眠され、本当に心に驚きと悲しみと 深い痛みを覚えました。その後、内田副支部長が後を継がれ立派に重責を果たされ、翌年の3月の引継ぎ会で 私がバトンを受け取ることになりました。副支部長は同級の岡本絢子さんが快く受けてくださり、3年間常に 力になって支えていただいたお陰で支部長の大役を無事に果たすことができました。

また、在任中はお当番の 方々が積極的に活動し、総会を素晴らしい会にしてくださいました。35年卒の当番の方々は、7年ぶりに 新名簿の作成のため資金作りに奔走され完成する事が出来ました。また、当時は明文化されていなかった 規則を検討し、会則として総会にはかり承認されたものを支部会員に配布しました。36年卒の方々は、 “ニューズレター”第一号を発行し、総会に出席できなかった方々が、関東支部の動静を知るチャンスを作って 下さいました。また、社会に役立つ事をと、「ぶどうの会」を作り古切手を集め、海外医療団体に送る事や、一円献金運動など、これらの活動は今も続いています。※1

 37年卒の方々は、中断していた支部連絡委員会を 再開して下さいました。また、ワープロで名簿の訂正票を作って下さいました。また、関東支部会費値上げを 総会で提案し、次年度から1,000円となり現在に至っています。※2 

各学年の当番長さんには、当番の方々を リードし誠意を持って同窓会の仕事をしていただき、私は支部長の役を無事務めることができました。この大役をさせて頂いたことで、院長先生、同窓会長、関東支部の会員の方々と親しく温かな交流ができ、色々学ぶ事を与えられ貴重な宝物を一杯いただき、私の生涯でも特に素晴らしい充実した3年間でした。

その間、神様が健康を与えて下さり、常に支え助け力づけて下さった心から感謝します。  

2004年発行『葡萄の枝』より

※1「ぶどうの会」の活動は、現在休止中です。

※2関東支部では、現在会費は徴収しておりません。


同じ学舎を通って生きて

小中乃芙子(昭和30年卒)

 昭和30年卒業ですから、私が45歳で当番学年をした頃は、「子育てが終わった人でやってよね」という 感じでした。ところが今の45歳は、現役バリバリで仕事に育児に目一杯頑張っている人が大半です。  私自身も仕事等の都合で時間的制約があり、結果として同窓生との交流や支部総会を失礼してきました。

仕事の整理を考える年齢となった時に、人選が難航していた支部長役が降ってきました。吉井麗子さん、 細川則子さんと私の三役はほぼ同じ事情で、学年連絡委員会が何であるかも分からない状態で、前三役の 申し送りと当番学年を頼りとしました。幸運にも当番学年と前年度の当番学年の連係プレーがみごとで、手順よく事が進められていくのを学習していくうちに、母校と同窓会への思いが深まっていきました。  

また、自発的に、当番学年の方々が、50年代卒の方々へ働きかけて集会を持ってくださることも感謝です。 こうした機会に、年齢差を越えて話に花が咲くのも同じ母校という根っこにたっているからだと思い、それも 嬉しい事です。

私の任期中に、「関東支部史誌」が編纂され発行されることになりました。末座に座って95年の支部の 歴史や昔の母校の様子を知ることができました。編纂に携わっている方々の熱意に触れることができました のも幸いでした。  

クリスマス礼拝は有志の方々の熱意によって準備されておりますが、長年の実績に鑑み、02年より 関東支部活動として位置づけました。同年末に母校では、創立120周年「教育支援募金」が始まりました。 このことによっても母校の発展と同窓生の母校への寄与と親睦が強められ連帯感が深められます。また 創立120周年記念と教育支援募金のためのチャリティーコンサートを企画中です。    

まだ支部長の任期は終了しておりませんが、多くの先輩や後輩に助けられ、何とか責任を果たしたいと 願っております。同窓生お一人お一人の一回限りのかけがえのない人生が、福岡女学院という学舎を通って 生きていることを思います。日頃はそれぞれの持ち場で与えられた役割を果たし、会えば素直に自分の生き様 が語られ、共感を持って互いに応援できるのは恵みの時だと思います。同窓生とはかくも深く結ばれている のかと思うと共に、母校の発展と関東支部の活動を心から願ってやみません。  

2004年発行『葡萄の枝』より


コール・クレールのあゆみ

藤田不二子(昭和34年卒)

1978年の関東支部総会には豊田種先生と渡辺磐子先生が招かれ、第一ホテルの会場には「流浪の民」の合唱 が自然と沸き上がった。この日をきっかけに河東淑子さん(昭和19年卒)のお宅に5~6人集まり、讃美歌 を歌っていたことから始まる。その後、田園調布教会⇒奥沢教会⇒自由が丘教会⇒故佐藤文子さん(昭和20 年卒)のお宅で練習。この時期に末吉嘉子さん(昭和29年卒)を指揮者として迎え現在に至る。

1979年福岡女学院同窓会関東支部総会に初出演、以降毎年出演
1981年女学院OG合唱団として正式に誕生
1985年『コール・クレール』と命名
福岡女学院創立100周年記念演奏会(福岡)に出演
1990年九州大学コールアカデミーOB合唱団T.A.G.と共演
ファミリーコンサートを開催(12月16日)
1991年社会福祉法人「夫人の園」インマヌエル創立10周年記念チャリティーコンサート
「メサイア」に出演(12月28日)
1992年九州大学コールアカデミーOB合唱団T.A.G.と共演
ファミリーコンサートを開催(11月8日)
1992年クラーク先生を囲むクリスマス会に出演(12月21日)
以降、毎年クリスマス会に出演
1993年コーラスとハーブのクリスマス演奏会(12月10日)
1995年福岡女学院創立110周年記念礼拝に出演(福岡)
1999年渋谷教会に於いて初めての単独コンサートを開催(4月6日)
2000年イタリア演奏旅行 パルマにてヴェルディ合唱団と共演(9月14日)
マントバにて演奏会(9月16日)
2002年合唱団『ぶどう』のドイツ演奏旅行に有志参加出演(10月)
2003年福岡日航ホテルにて渡辺磐子先生を偲ぶ礼拝に出演(2月16日)
2003年クラーク先生来日、クラーク先生を囲む会に出演(4月11日)
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